尾崎放哉 (2023年8月30日)

『放哉と山頭火』(渡辺利夫、ちくま文庫)、『放哉評伝』(村上護、放哉文庫、春陽堂)を参照した。

この人は自由律俳句の俳人で「層雲」の山頭火と双璧だった。

尾崎放哉は東京帝国大学法学部を卒業したエリートで生命保険会社に入ったが、アルコール依存症になる。また酒乱になるという困った性癖で、退社する。友人の紹介で朝鮮の保険会社に入るも、酒癖の悪さゆえに退社せざるを得なかった。友人をたより満州にわたるが、学生の頃になった肋膜炎が再発し、日本に帰る。

日本に帰り一燈園に入る。この団体は西田天香によって京都に作られた求道的会だ。放哉はそこで天香の唱える懺悔と下座の生活に活路を見出そうとした。ここでも酒乱で騒動を起こす。また天香に批判的で、下座奉公に行った先の常称院の寺男になるが、また酒乱で追い出される。

酒乱は哀れだ。酒を断つしか生きる道はないのだが、酒は断ちがたい。こうして放哉は酒乱と肋膜炎を抱えながら崖っぷちの道を歩むのだった。

山谷でも酒乱は大変だった。飲んで暴れて手に負えない。マンモス交番を呼ぶしかなかった。アルコール依存症は山谷には多かった。今は山谷は静かになったが朝から飲んでいる人は幾人もいる。もう酔っぱらっているのだ。道路の縁石に腰かけて飲んでいる。どんな生活をしているのだろうか。酒代はどうしているのだろうかと思う。スポーツ新聞などに土工などの出張の広告などがあるから、そういうもので10日なりを飯場で働いて金を得て山谷に帰ってくるのかもしれない。今でも山谷は気楽だ。ドヤはいくらでもあるし、朝から飲み屋はしているし、男が朝からぶらぶらしているし、ここでうろうろしても、酔っぱらってもいぶかる人はいないので気楽なのだ。寒くなければ野宿も適当にできるのだ。

山頭火も酒に問題があるが、放哉の酒は病的だからかわいそうだ。ジキルとハイドのようで飲めば人格が一転する。きちがい水というが本当にそうなのが放哉だ。キリがなく飲み、毒ずき、けんかを始めるのだ。そうゆう人の事を前に聞いたことがある。その人は飲むと相手を殴る癖があるという。立ち飲みで隣を殴りけんかになってしまうのだ。私も酒は飲む。気をつけよう。

放哉は学生時代から俳句に親しんでいた。自由律俳句の井泉水(せいせんすい)の句誌「層雲」に投句していた。

層雲の投句には光るものがあった。(85)


たった一人になり切って夕空

なぎさふりかえる我が足跡も無く

淋しいぞ一人5本のゆびを開いて見る(87)

ひげがのびた顔を火鉢の上にのつける

つめたい風の耳二つかたくついている

わが顔ぶらさげてあやまりにゆく


井泉水も東京帝国大学卒で学生時代から俳句をしていた。俳句会を作り、放哉は俳句の子弟の関係で親しくしていた。放哉は井泉からお金を借りたりしていた。

寺男として働くもこき使われて井泉のところに逃げ込んでしまう。井泉水は自由律俳句の異才を死なすわけにはいかない何とか生活を作ってやらねばと考えていたのだ。

小豆島には層雲俳人、住職の宥玄に頼み、どこそこの寺男となる段取りをする。遍路さんの喜捨が生活費となる庵があった。放哉はここが気に入った。海があるからだ。(128)独居生活、ここを死に場所としたのだ。結核菌で喉もやられ食えない、咳で一晩眠れない。入院はせずにここで死ぬと決める。もうこれ以上他人に迷惑はかけたくないと考えたのだろう。寝たっきりだ。近所の漁師のおかみさんのおしげさんが世話をしていた。多分宥玄に頼まれたのだろう。宥玄は尊敬する井泉水に頼まれたのだろう。井泉水は救いようのない放哉の骨は拾う覚悟で世話をした心の広い人だったのだ。山頭火も層雲の俳人の支えで生活を何とか維持して生涯を全うする。二人は似ている。自立して生計ができないのだ。破れているのだ。でも自由律俳句は両者とも他に抜きんでていたのだ。芸は身を助けるのだろう。

(167)もう一人では寝起きもできない。放哉は死が近づいていること感じていた.この庵で一人静かに死ねるのは良いことだと心から思っていたのだ。自由律俳句の異才として井泉水は支え続けたのだったが、本人はもう生きる勇気はなかったようだ。飲めば気違いになるし、好きな酒ももう飲めないし、体は結核でむしばまれているし、もう生きなくても良いだろうと思ったのだろう。早すぎる死だ。自己放棄の死だったのかもしれない。山頭火は酒浸りの生活の中で念願通りポッコリ死んだ。放哉の酒乱という気の毒な気質がこういった人生を旅させてしまったのだと思う。

 山頭火の系譜 (2023年8月11日)

山頭火は旅に生きた人だ。

42歳で電車を止めそれが縁で禅門に入り、43歳で出家得度する。42歳までは酒浸りの生活だった。44歳に奉職の観音堂を出て一鉢人笠の行乞放浪の旅に出る。友人宅を訪問することもあったが、以後7年間を行乞放浪する。九州、山陰、山陽、四国などを放浪する。

彼は放浪詩人だったのだ。ひたすら歩く。行乞という生活手段は強かった。野宿のときがあってもお米お金を得ることができる。木賃宿にも泊まれる。酒も買える。俳句も作れる。歩ける間はとても充実した生き方ができたのだ。

彼は歩きに歩いたのだ。そんなふうに歩いた俳人は芭蕉や良寛だった。

芭蕉が覚悟して旅に出て、作った「野ざらし紀行」の冒頭に「野ざらしを心に風のしむ身哉」とある。旅の途中で病気になり倒れ、白骨となってしまう姿を思い浮かべた句だ。そういった野ざらしを覚悟してまで旅へと心が動く決意はすごい。旅に憑かれた、風狂の精神だ。

芭蕉は奥の細道で2400キロほとんど歩いた。西行や宗祇もたくさんの旅をした。

芭蕉は西行にあこがれていた。俳人は四季折々を友とする生き方を愛したのだ。旅を栖としたのだ。

「月日は百代(はくだい)の過客(旅人)にして、行きかふ年もまた旅人なり」と『奥の細道』の冒頭にある。「行きかふ年もまた旅人なり」については、なぜ年が旅人かと思ったのか、サクラ咲く春が過ぎ暑い夏、かと思えばもう冬だ。時がどんどん過ぎてゆく。まさに歳月は旅人のように過ぎてゆくのだ。歳月人を待たず、なのだ。これは時を中心に、自然を中心に考えるとそうなる。

人間中心だとそうはならない。人生は波乱万丈だ。山あり谷ありだ。時間という流れの中に人間の存在があり、その中を歩んでいる、時間の工程の中に旅はある。人は時間の流れを栖としているのだ。山頭火には67年間という時間を文字どおり旅する歴史があった。私にしてもまだ旅は続いている。日雇いをして、教会を作り、食堂を作った。それらの現象は一つ一つの時間の流れの中で作り上げた。時間という旅の中で作り上げてきたのだ。

振り返ると、ずっと戦ってきた。大変な戦いだった。それは毎日毎日がやっぱり旅だった。来る日も来る日も苦しい日々だった。空手に通ってけがをして、山頭火が毎日行乞したように、毎日山谷で行乞した。日雇いという旅もした。これはたいした財産になった。いまでも様々な出来事の中を旅している。

今は安定だが、皆年を取った。まりや食堂はみんなで支え合い組み立て何とか毎日を歩んでいる。

毎日が明日に向けた旅だ。今は年を取り、あとせいぜい10年の命だろう。毎日一日ずつ命がなくなっていると感じている。これも旅だろう。今日の一日の時間を使って、旅して、生きられるだけ歩むのだ。その旅でやれることはできるだけやっていこうと思っている。まずはまりやはできるだけ継続する、この山頭火を出版することだ。それにテニスを中級までもっていくことが私の残る時間を旅することだろう。土曜礼拝でできるだけ身につくような本を取り上げたい。木曜礼拝ではイザヤ書をいよいよ読破できそうだ。なかなか大変な予言者だ。再読しなくてはと思っている。

全てはやはり旅だ。人生を旅しているのかもしれない。それらを求めて歩み続けているのだ。時間という旅が栖だ。

時間の中を旅していることで、先日すごい体験をした。20年ぶりにボランティアが子供を連れてまりやにボランティアに来てくれた。一番親しくしていた人だから再会を喜んだのだが、彼女は感極まって涙を浮かべていた。大変苦労したようだったが、20年前に比べてたくましく強靱になっていたのには驚いた。20年間という時間の中で大変苦労したようでそれを乗り越え今日に至った顔つきと体つきが頼もしかった。やっぱり人は時間の中を旅するのだ。そこでもまれ強くなるのだ。山頭火は時間の旅をとても楽しんだ人なのだろう。最後は希望どおりぽっくりと死んだ。

私の旅はまだ続く。あと10年は続くだろうか。その間、私は日毎に自分が一日一日と死んで行くことを感じている。私という存在が日毎に無くなっているのだ。それだけにその日を大切にしなくてはならない。その日を精いっぱい生きなくてはならない。その日は戻らない。消耗した、死んでしまった一日、時間なのだ。残りを一生懸命に使わなくてはならない。

『奥の細道』の書き出し文に「舟の上に生涯を浮かべ馬の口とらえて老いをむかうる者は日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり」。船頭さん馬子(まご)は日々が旅だから旅が栖(すみか)だというのだ。昔の人も多くは旅に死んでいる。芭蕉も3年の月日を陸奥(みちのく)に旅する。ほとんどを徒歩(かち)だ。宿を泊まり歩いたのだ。これまた大変な旅だ。まさに旅が栖なのだ。

芭蕉は奥の細道などで遠くまで旅をしているが、お弟子さんを伴ったり、支援者も多く、旅の途中でその土地の俳句仲間と句会をして連句を巻いたり、歌仙を巻いた。その句会で指導料などを提供されたから路銀には不自由はなかったのだろう。名所旧跡を訪ね、神社仏閣に参拝している。蘆野(あしの、那須町)では西行法師が「道のべに清水流る柳かげ、しばしとてこそ立ちどまりつれ」と詠んだ柳のもとで、「田一枚植ゑて立ち去る柳かな」と詠んでいる。鳴子を通り尿前(しとまえ)の関所で吟味され遅くなりその役人の家に泊まったという。馬屋が母屋の中にあり「蚤虱(のみしらみ)馬の尿(しと)する枕もと」と詠んだ。当時は蚤虱は当たり前だったのだろうが、教養人にはそれほどなかったのだろうと思うが、俳句の旅の厳しさが思える。山頭火も蚤虱にはだいぶやられたと書いている。彼の泊まった木賃宿などはそれらの住処だろう。また山頭火も放浪していたからろくに衣服は洗濯もしないだろうから法衣などにはシラミがたかっていただろう。宿泊で「一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月」という俳句があるが、遊女も寝たというのはフィクションらしいが、時には雑魚寝のように同室に何人も寝る宿にも泊まったのだろう。山頭火は木賃宿に泊まったので当然一室に何人もが同宿したのだ。

芭蕉は俳句の指導者として尊敬されえていたから、旅先では俳句の愛好者の家に何日も泊まり骨休みをしている。この陸奥の旅にも門弟の同伴者曾良がいていろいろと世話をしたようだ。どういうわけか途中で別れてしまうのだ。しょせん人間ていうのはそんなものさ。

芭蕉は体が弱かった。痔があり、胃腸の持病もあった。道すがらお湯を求めてもなかなかなかったらしい。お湯を求めるというのが、すごい。知らない土地の水はあたる可能性があるから、体も弱いし慎重なのだろう。このような体の状態でも大旅行を実行するのはすごいことだ。旅の途上で死ぬことも覚悟の上だったのだ。湯に関して山頭火は水が好きだった。酒と水両方とも好きだと書いてある。流れに直に口をつけてがぶがぶと飲んだ。水は美しい、二日酔い後の水のうまさ。「飲みたい水が音たててゐた」「へうへうとして水を味ふ」などの短句で水の味に心から感謝している。このようにめっぽう水の好きな山頭火だった。

私は芭蕉と同じで、胃腸が強くないので生水はほとんど飲まない、冷まし湯かさ湯かお茶だ。夏でもお茶がおいしい。

芭蕉はそのような体の状態にもかかわず大旅行をしたのは、根本的には造花随順、風雅、風狂(現実から逸脱して自分自身に徹底すること。俳句の中に徹底していくことだ、それは狂気のようなのだ)、旅心だったのだ。

山頭火も風狂であったのだろう。

その点で山頭火は本当の漂泊者だったのだ。まさに旅を栖にした人だ。それだけに旅生活に即した迫りくる自由律俳句がいくつもあるのだ。

投げ出してまだ陽のある脚

この旅、果てもない旅のつくつくぼうし

だまって今日の草鞋穿く

生死の中の雪ふりしきる

法衣こんなにやぶれて草の実

ふりかえらない道をいそぐ

疲れて足を雨にうたせる(133)

雨に濡れながら宿を探すのだ。

いづれは土くれのやすけさ土に寝る(141)

熱の中行乞、悪寒してお堂で休んでいると子供たちが地面にござを敷いて寝かせてくれた。いずれはどこかでこんなふうに土くれのやさしさの中で死ぬのだろう。

病んで寝て蠅が一匹きただけ(145)

金がなく野宿が続き風邪をひく、お堂で寝ていると蠅がうるさい。

すこし熱がある風の中を急ぐ(148)

秋風の旅人になりきつてゐる(150)

ホイトウとよばれる村のしぐれかな(151)

旅はつらい、寒くなると身にこたえる。「ホイトウさん」(乞食さん)と呼ばれて振り返る。

降ったり照ったり死に場所をさがす(153)

どうしようもないわたしが歩いてゐる(154)  

人の情けにすがって生きている。情けないが今日も歩く、ひたすら歩くことに集中する。動けなくなるまで旅を続ける。(石寒太『山頭火』参照)

この人にも支援者がいて苦しいときはお金を所望していたのだ。

後半は庵を作ってもらいそこで生活するようになる。彼は自由律俳句でやはり支援者を作るほどの有能な俳句者であったのだろう。だから、晩年は行乞するには年をとっても何とか生活ができたのだ。今日は何も食べ物がないなどと日誌に書いている。

山頭火の心と酒 (2023年7月14日)

『山頭火』(村上護,春陽堂より)


無駄に無駄を重ねたやうな一生だった、それに酒をたえず注いで、そこから句が生まれたやうな一生だった、と日記に記す。


種田正一は山口県防府市に生まれる。明治15年だ。

種田家はそのあたりの豪農であった。11歳のとき母は自殺。父は家を顧みず、政治に打ち込み、家政は乱脈、女道楽も激しかった。母はノイローゼだったようだ。母の死の衝撃は彼の生涯を覆っていた。早稲田大学に入る。一年で退学。神経衰弱のゆえだ。家業がひっ迫して仕送りもとどこったらしい。大学に入ったのだから学業は優秀だったのだろう。

結婚、夫人のサキノはニョウボよりも酒と文学の方が好きだったと語る。文学、詩、俳句などに集中していた。

最初の不幸は母の自殺、第二の不幸は酒癖、第四の不幸は結婚そして父になったこととしるしている。子に対しては十分愛情を持っていた。

田畑家屋敷を売り払い、作った種田酒造場は破産し父竹次郎は夜逃げする。彼は妻子を伴い熊本に落ちてゆく。

雅楽多屋を開く。額縁、プロマイドなど売る雑貨屋だ。

弟自殺。これ以後酔っていることが多かった。


人生に悶々としていた。酒の隠れ場なくてはどうにもならない、と友人は言っていた。

酔後の虚無感は自殺すれすれのようだ。この境地にさきの夫人はどれほど悩まされたか。山頭火の泥酔の数々は挙げればきりがない(9~78頁参考)。


大正13年、ひどく酔って電車の前に仁王立ちになり、電車は急ブレーキをかけ無事だったが、急停車で横転した乗客は怒って山頭火に危害を加える雰囲気で、居合わせた顔見知りが引きずって禅寺の法恩寺に連れて行った。寺が気に入り読経座禅作務に励み、大正14年に出家得度した。43歳だった。肥後の片田舎の味取観音堂守となる。

奥さんとは法的には離婚していた。時に家に戻っていた。こうして堂守の生活になるのである。


山頭火の酒について『どうしやうもない私「わが山頭火伝」』(岩川隆、講談社)から紹介する。

歩かない日はさみしい 飲まない日はさみしい 作らない日はさみしい

酒のうまさを知ることは不幸でもあり幸福でもある

酒の飲み方

酒は味ふべきものだ。うまい酒を飲むべきだ。

焼酎を飲まないこと

冷酒をあおらないこと

適量として3合以上飲まないこと

落ち着いてしづかに温めた 良酒を小さな酒盃で飲むこと

微酔で止めて泥酔を避けること

気持ちの良い酒であること、

等自戒を繰り返すがうまくいかない


大学に行くがうつ病と神経衰弱にかかる。酒を飲む。どろどろの状態で眠り込み夜が明けると今度は酔態をさらしたことを恥ずかしく思い自分を責めた。退学。


家に帰る。ぶらぶら。うつ病、酒のみ。ぐうたら。文芸にのめりこむ。

酒で醜態。一人でいたい。結婚し、すぐに飲んだくれ、怠け者。

酒で苦しみを紛らわす。


親しむのは文学だけだ。文芸誌に参加。モーパッサンの一部を翻訳している。

「頭そのものは賢いのだ(菊地)」


日露戦争勝利し世は派手な暮らし向きでも、正一は毎日酔っ払い。

著者は山頭火と言わずに本名の正一と言っている。


俳句作りに安らぎを覚える。郷土で文藝などにも手を染めるのである。

正一は浴びるほど酒を飲んだ。悩みを生む主体となっている自分自身の存在、肉体を消し去るいきおいで前後不覚に酔っ払い、意識を失って道端に横たわる。

正一はどろどろした悲痛なものがつねに絶叫したたかっていた。ぐうたらでだらしない自分と、対極にある自分が一個の個体の中に同居している。この矛盾の中にいては死ぬしかない。うつ病神経衰弱が折に触れて正一を悩ます。

42,3歳と言えば大正の時代で晩年に近い齢である。アルコール依存症のうえうつ病をかかえた正一は身も心もぼろぼろとなり何をしているのか、何をしていいのかわからない、とにかく生きて飲んで酔っ払っているという状態のとき電車道に立ち進路を妨害してしまったのだ。

完全にアルコール依存症なのだ。山谷でもそういった人は幾人もいる。今も朝から飲んでいる人たちもいる。酒酒酒なのだ。朝から酔っぱらっている。覚めればまた飲む。まりや食堂の前でガタガタしたりする。飲み続け山谷の裏道で泥酔し寝ている。小便などは垂れ流した。非常に悲惨だ。


山谷がアルコール依存症の専売特許ではない。世間は家で飲むとかで顕在化しないだけだ。

最近読んだ本に父親がアルコール依存症になりその親と激しい戦いをした娘の本がある。少し紹介する『全部許せたらいいのに』の本に惹かれたのは、私にも許しの問題があったからだ。あと一つは山頭火の事、酒があったからだ。

この人は全部許せたらどんなに楽だろうかと嘆いている。許しは難しい。私の身の回りにもいくつもそういった事柄が転がっている。転がっているとはそういったことはきわめて日常的な事柄だからだ。許すとは受け入れることだ。私は私的にはほとんどを受け入れ、多少こちらが損しても受け止めることである程度心が休まっている頃ごろだ。

この本は千映と宇太郎の若夫婦の歩みを描いた小説だ。宇太郎は就職して人間が変わってしまう。毎日泥酔で帰ってくる。できの悪いサラリーマンで、下っ端だ、必死に仕事をして終われば同僚とメイいっぱい飲む、あるいは一人で仕事の重圧からの解放で泥酔まで飲む。千映は遅い時はメールをくれるように、三杯でやめるように、今日は飲まないようにとか、責めたり、圧力をかけたりする。千映の父親はアルコール依存症なのだ。宇太郎がそうなることを心配しての行動なのだ。千映は許して信じて優しくできたらよいのにできない自分がいるのだ。夫の弱さ、危なさを笑って受け入れられたら、宇太郎はゆったりして生活できたろう。私はお酒に苦しめられ、お酒で家庭が崩壊した私には無理。そういった葛藤の歩みがこの本だ。

山頭火にからめ千映の父のアルコールの所業の凄まじさを紹介する。

千映の両親は幸せだった。貧しい。質屋に行く。夫は組織は無理だ。食えたらよい、それで幸せだ。娘のために貯金だ。幸福だ。と幸せだらけだったが、父が会社員になる。仕事の重圧。いらいら、酒で解消,効かない、また飲む、といった生活で、酔いを長引かせたい。脳が明晰になるとよいことはない。考えずに済む。酒以外に気分が浮く手段は見つからない。ひたすら罪悪感や自己嫌悪や焦燥や倦怠を酒で流す。娘が用事があるのに酒を買わせようとする。拒否すればける、殴る。平日は酔っぱらって帰ってくる。些事から火が付けば執拗に絡まる、休日は朝からべろべろ。いつ爆発するかわからない緊張感。休日は狂気に感じる。さっきまで笑っていたのに突然怒り出す。

酒量と妄想が大きくなった。一番いやなのは暴力だ。父はわがままを通すために子に暴力、子供との約束を守らない。それを言うと暴力をふるう。

家を離れた。でも縛られている。母は一人では不安だ。罪悪感。

父離婚、一人アパート生活。多分年金で生活したのだろう。皆飲んでしまうから足らずに娘にせびる。父との距離をとって家庭を守る。時に罪悪感に襲われる。金せびる。罪悪感のため送る。適切な位置に身をおけるようになった。父から自立したのだ(菊地)。

父は祖母が訪ねて行ったときは腐敗していた。飲んだくれてどこかにぶっつけて出血し死に至ったようだ。アルコール依存症の終着駅だ。


正一は子供はかわいがったとある。実際子供は成人してから父に仕送りもしている。

正一もいつも酔っていたというが家庭内暴力はなかったのだろう。酔っぱらって路面電車を止めたのだから、結構激しくは飲んで酔っ払っていたのだろう。


山頭火の酒の句(石カンタ)

たまさかに飲む酒の音さみしかり

たまさかに飲む酒の音はさみしいからまた飲むのだ。さみしい酒の音がよけいわたしを誘うのだ。


酔えばあさましく酔わねばさびしく

はじめほろほろ次にぼろぼろ、気が付くと泥酔

山頭火は泥酔するまで飲んでしまうという。

酒飲めば涙ながるるおろかな秋ぞ

へうへうとして水を味ふ

酒は好き、水はもっと好き。水は命、酒は宝、

歩いて、くたびれて、てのひらに掬(すく)ういとまがない、笠をぬいで直接水に口をつけて、ごくごくと一気に飲む。

ほろほろ酔うて木の葉ふる

酒は適量に飲めば楽しい、飲みすぎるとさみしく、悲しい。

酔うてこほろぎと寝てゐたよ

しきりになくこほろぎの、声で眼がさめた。田の畔にごろんと寝転がっていた。夜空に星がまぶしかった。農家を托鉢して焼酎だ。なみなみもらい、しこたま酔ったのだ。

別れてきてさみしい濁酒があった

友と別れてまた一人旅さみしい。さみしくて途中で濁酒2,3杯ひっかける。ほろほろ酔うて、いつか泥酔。人生はこれだけだ。これだけでよろしい。

(これ読むとほんとに気楽な漂泊者のように感じる。菊地)


酒がやめられない木の芽草の芽

いろいろなことを起こして、もう酒は二度と飲むまい、そう決心しながら、次の日はもう酔いしれている。

暗い窓から太陽をさがす

とうとう留置場にぶちこまれた。まわりは壁ばかり、太陽が見えない。しこたま酒を浴びたのは覚えているが、あと、何が起こったのか思い出すことさえできない。気がつくと檻の中、暗い窓に太陽を求める(多分、無銭飲食で警察に突き出されたのだろう。もうへべれけで何も覚えていないのだ。菊地)


酒やめておだやかな雨

しぐれへ三日月へ酒買ひに行く

今日も三日月がめそめそ泣いている。冷たいしぐれ、三日月の中に酒買いに出る。例によって街を飲み歩き帰庵。

よい宿でどちらも山でまえは酒屋で

酔うていっしょに布団一枚

酔ひざめの春の霜  

友と庵で飲み、街に出てどろどろに酔いつぶれ、道ばたに寝ていた。もう朝だ、別れ霜が降りはじめている。

酔いざめの風のかなしく吹きぬける

一杯東西なし、二杯古今なし、三杯自他なし

 おもいでがそれからそれへ酒のこぼれて

ついに、生涯、俳句と酒から離れることができなかった。

 山頭火と山谷と私 (2023年6月14日)


「ほろほろ、ふらふら、ぐでぐで、ごろごろ、ぼろぼろ、どろどろ」(p.11)

うまい表現だ。山頭火の飲み方なのだ。フラフラまでが良い。私もその全部の時もあったと思う。今はフラフラまでだ。体や次の日の事を考えて止めるようにしている。ちょっと飲みすぎると次の日がテニスの練習なら切れが悪い。だからそれがある前日は控えめに、不整脈もあるから控えめに。こんな事象によって自分にプレッシャーをかけて控えめに飲むように努力している。うまくいかないこともある。仲間は上の表現の様々なタイプがいる。基本はみな強かった。Nは強くないがどろどろになるまで飲むアルコール依存症だった。酒はなかなか厄介な品物だ。

石寒太は(p.82、84、85)山頭火の人気がある理由を言っている。

家を捨て、妻子を捨て、旅、酒、自由律俳句、漂白、流転の境涯が今の人に魅力なのはなぜか。何物にも拘束されない生き方は魅力だ。日常に縛られた人々には魅力だ。作品もわかりやすい。徒食して好き勝手して、さびしがりや、あいきょうがある。金銭の面倒をみてもいい人だったと評価。家庭ダメ、仕事ダメ、酒大好き、そこに親しみを覚える。

でたらめな人生を送りながら、俳友や友にたかり、金を借り、借金を肩代わりさせるのは何でできたのか。(p.85)私もそう思う。その最大の理由は自由律俳句にあったと思う。自由律俳句の世界でとびぬけた作品を作り続けたから、その作品の魅力のゆえに彼はその存在が許されたのだろう。何をしでかしても友人から許されたのだろう。

大きく言えば、そういった俳句の授業料を俳友は支払っていたのだと考えられる。

あとは時代だろうか。明治、大正、昭和初期の日本人には大いなる人情がまだあったのではないだろうか。

家を捨て、自由な生き方をしている人々を私は知っている。それは山谷の私の仲間だった。自由に生き、酒、ギャンブルで人生を歩む人々だ。山頭火は行乞が嫌いだったが、漂白時はこれで食いつなぎ、酒にありつき、宿にありついだ。金があればいくらでも飲みつぶれていたのだ。行乞で銭やお米が集まらない時は俳友に援助を頼んだのだ。あるいは野宿だ。

山谷の仲間たちは生活のために肉体労働して、稼いだ金を酒やギャンブルに注いだのだ。彼らは自分で稼いでそれで遊んだのだ。その故に、私は自由な奔放な山頭火に魅力を感じているわけではない。

私が興味があるのは、めちゃくちゃな飲みっぷりだ。飲んででたらめになるすごさだ。

これは仲間の人にはない。それほどの度胸のある人もないだろう。

仲間が無銭飲食した時はしたたかに殴られて放り出されたという。違う人の話では警察に突き出しても時間が食って仕事にならないと言う、だからぶんなぐっておしまいなのだろう。仲間は身の程で飲み食いしておしまいだ。それでもアル依存症の人は安い酒を飲み続ける。山頭火は時には料亭で飲み食いし、つけ馬を友人宅に連れていき、支払いをお願いしたとある。ずうずうしいというか、鉄面皮なのか不思議な感覚だ。なぜならアル依存症ならそれでよいのだが、なんで一流どころで目一杯飲むのだろう。安いところでくだくだ飲んで支払いを友人宅にもっていけば傷は浅いではないか。友人も迷惑だ。

句会で飲む、足らなくて飲みに行く。最後はぐでぐでだ。私も結構酒を飲むから山頭火が好きだ。やめようと思っても飲んでしまう。肝臓、不整脈を意識して酒にブレーキをかけてはいるが。

山頭火は結局は無事な人生を送ることができた。山頭火は句をたくさん残した。やっぱり句の力のなせる業だったのだろう。庵を立ててもらいそこで月一回句会を行い、ある日の句会で山頭火は酔っぱらって隣部屋で熟睡そのままだい往生だ。畳の上でぽっくり死んだのだ。愛された人だったのだろう。どうにもならない男が句の力で支えられ、逝ったのだ。今もその俳句は魅力をもって世間に舞っている。でも墓は共同墓地だった。

わけいってわけいっても青い山

うしろすがたのしぐれて行く

山頭火のように酒にだらしない男がいた。20年近く支えてきて平和に死んで行った。少しそれについて語る。若干の知的障害とアル症だ。毎日飲み続け、昼も飲んだ。夕方まで飲まずに、また飲んだ。体がズタズタになり入院、退院すればまた酒だ。野宿しながら酒だ。誰かがおごるのだ。これが山谷の良いところだ。

入院し生活保護が取れ、あとは監視しながら酒が少しで止まるようにした。だが酒は止まらず、腹水がたまり入院とか、静脈瘤で入院。それを縛って、干し柿のようにしてとるのだ。腹水からヘルニアになるとか、様々な病気で入院だ。日本の制度は医療保護があるから酒の問題児でも入院等で治療が受けられるからよいことだが、私は時には、「多くの人の保険金で支えられているのだから酒は控えめに」、と言っても依存症だから無理だった。

ある時からシアノマイドを飲ませて酒の量は減った。これは酒が嫌になる薬だが、飲む。これを飲むとあまり飲めないとほざく。あまり飲めないでよかった。でも酒だ。

ある時は電話で病院によばれた。路上でひっくり返っていたのだ。酒、酒それがこの人の特徴だ。山頭火と同じだ。酒がすべてで、酒で粗相し、ドヤを追い出される。私は保証人になって違うドヤに。

山頭火は居場所を作っても長くおられずに旅に出てしまう。旅に出ても行乞ができれば何とか食って飲んで泊まれるのだろう。あてどもない旅の人生が好きだったのだ。芭蕉同様旅が住みかだったのだ。旅は俳句の旅でもあったのだろう。彼は生活保護をもらえたから生活は安定していた。

山谷の仲間は日雇いだった。出ずらを飲むのだが全部飲まずに明日の分は残した。またそうしないと次の日仕事にならないのだ。その点では山頭火より仲間の方がシッカリしていたと思う。

山谷のアル症者はドヤにも泊まれないから野宿だ。仲間同士で次の日酒たって仕事に行けば何日かは酒を飲み続けられる。そんな日々だったと思う。最後は病院に収容だ。その繰り返しで路上で亡くなっていくのだろう。

Nは最後は施設に入りそこで一生を終えた。当時は徘徊や妄想があってもう私たちの支えの限界が来てバトンタッチしたのだった。それは山谷にあるまりや食堂を活動の拠点にしているが、夜はそれぞれの住まいに帰るから、夜遅くまでは日常的にかかわれないので知っている施設に頼んだのだ。沢山のかかわりで支えたがゆえに畳の上で死ぬことができた。これは愛だ。隣人愛で支えたので最後まで生きることができた。

山頭火は家族を捨てたのに、せがれは大人になって父を金銭的に助けた。

私も家族を大切にしないところがあった。伝道のために日雇いになり山谷のドヤやアパートを借り週末しか家に帰らなかった。そんな生活だから子供の事は妻にまかせっぱなしだった。妻も生活のために仕事をしていたからそれぞれ苦労してきた。

日雇いし仲間を作り、飲み会などをした。よく飲んだ。よく仕事もした。伝道所を作り、食堂を作った。

当時山谷には合法的な暴力的組織と私的な暴力組織があったと感じている。あるグループとのいさかいで激しく攻撃されたこともあった。それが長く尾を引いて何年も緊張を強いられた。当時山谷は現役も多く食堂で酔っぱらって暴れることもあった。良かれと思い安い食堂を作ったのにこれは想定外だった。

元来が弱虫だったが、日雇いで体はある程度できていたし、土堀など気合がいるからある程度は体力と根性はできていた。その点で山谷伝道には日雇いの洗礼は必要だったと振り返り思う。炎天下の路上の仕事は殺されそうだったが必要事項だったのだ。そういった武装をしていたから大概の日雇いの酔っ払いでも対応はできたし、食堂の時も日常的に日雇い仕事の会話ができたので食堂の仕事はそれなりに流れた。

尾を引いたといったのは、そのグループの周辺にいた中に思い込みの強い人がいて私はその人の妹を殺したとかどうのこうので最後には包丁を持ってきたのでボランテアと私のために弁当屋に切り替え今日に至っている。弁当屋であれば部屋内にその人が入ることはないのでさほど危険はないのだ。うろうろしているので、防刃チョッキを買い用心をし、極真空手の修行をした。そのころは50過ぎのおじさんだった。周辺部に3人組というのがまたうるさかった。思想をかじっていて論理を振りかざしていた。一人は理屈がたち私を評価していたが、もう一人は若く飲むと強烈に乱れて怖かった。一度取っ組み合いになったこともある。皆過ぎ去ったことだけど思いだせば心がうずく。

今でも割り切れないでいることがある。当時はマンモス(交番)も先鋭であった。山谷の組合が日雇い労働者のためにハンバや建築会社に押しかけ労災の要求や賃金未払の支払いなどを要求していた。日雇い労働者は一人の弱さや知識の足らなさから踏み倒されることも多く組合が頑張っていたのだ。当然マンモスと組合は先鋭的対立関係にあった。私なども日雇い労働者のために食堂を作っていたから交番には否定的で組合を応援していたのだ。それがその組合の一部の人たちが私たちを攻撃してきたのだ。それはないだろうという気持ちがあった。攻撃されても交番に垂れ込むわけにもいかないし。本当に困ってしまったのだ。やむをえないから政治的に解決をしたのだが、それ以来心情的には組合を支援をしているが、その関係性は大人の関係であり続けている。

今の山谷はおとなしいといってもやはり山谷だ。山谷の中にあるマンモス(交番)は山谷の中を常に車で巡回だ。怪しいとなれば何人もの警官が囲み職務質問だ。

当時山谷の仲間は毎晩の酒、ドヤの一人生活、週末のギャンブル、明ければまた激しい日雇い生活。それを癒す、山谷に帰ってからの酒、これが人生なのだ。酒があれば人生は楽しいのだ。山頭火と同じ境涯なのだ。ただ彼は山谷では通用しない。肉体労働は無理だし、怠け者だから。でも公園などで酒盛りしている野宿者の中に入り込めば仲間としていくらでも酒を飲ましてくれるだろう。

山頭火の現実の生活は壊れているが、生活を支えるのは行乞なのだ。これがこの人にふさわしい。なぜなら家庭生活のように一か所にとどまらなくてよいからだ。放浪し、酒をたらふく飲んで、木賃宿に泊まり、そのつれずれが俳句を生み出す力であり俳句を生み出していたのだろう。酒と旅が俳句を生み出すのだ。こんな生き方もあるのだ。

自由律俳句で山頭火は若い時から優秀であった。雑誌の選者に選ばれる。俳諧の力は抜群なのだ。

(p.80)うつを紛らわせるために酒、飲めばとことん泥酔し醒めれば自虐。

山頭火の母は自殺、家は破産、弟も自殺、うつ病、大酒のみ、結婚、健が生まれる、法的には離婚。そういった環境に山頭火はいたのだった。

 山頭火 (2023年5月24日)


戦争への思い(p.159、大山)

日中戦争が1937年(昭和12年)に始まり若者が戦争にとられる。馬も連れて行かれる。

ふたたびは踏むまいと踏みしめて征く(p.291)

応召で二度と踏むことがないかもしれない故郷の地

しぐれつつしづかにも六百五十柱(岩、p.340)


戦況が激しくなり、山口の駅からお骨の白い函を持った人々に衝撃を受けた。迎える人もすすり泣いていた。

戦死者がお骨となって帰ってくる。

雪へ雪ふる戦ひはこれからだといふ

もくもくとしてしぐるる白い函をまえに

いさましくもかなしくも白い函

お骨声なくみずのうへをゆく

その一片はふるさとの土となる秋

みんな出て征く山の青さのいよいよ青く

これが最後の日本の御飯を食べてゐる、汗

ぢつと瞳が瞳に喰ひ入る瞳

足は手は支那に残してふたたび日本に(戦傷兵士)

日ざかりの千人針の一針づつ


出て征く夫のために涙ぐんで赤糸の一針を求める若い妻。千人の人に一針縫ってもらう。武運があると言われる。

反戦句ではないが日常的な市民の悲しみを詠いあげている。これはこれでよいのではないか。戦争を賛美するのではない。山頭火は争いは嫌いなのだ。


『ひとたばの手紙』から反戦的俳句、これも無季俳句。

憲兵の前で滑って転んじゃった

戦争が廊下の奥に立っていた


この俳人は憲兵に逮捕され、監獄に入れられた。

大学生髪やはらかく戦死せり

傷兵を抱き傷兵の血に染まる

戦場へ一本の列が生き動く

兵寝て醒めず列車に雨来る

母の手に英霊ふるへをり鉄路

水筒の弾痕に触れ痛し

一兵士はしり戦場生れたり


にらみ合っていた戦闘集団が、一兵士の撃ちやすい場所への素早い移動をきっかけに戦闘が始まったのだろう。


私の自由律句

茶の間まで戦争飛び込むテレヴィジョン

人身御供停戦までに幾十万


山頭火は戦時普通の仕事を考えたが続かない。世の役に立たない社会のいぼだ、落ちこぼれと自嘲する。句しかできないと腹をくくる。

だがこの非常時にまた大酒を無銭飲食してしまう。45円を飲んだ。この金額は当時の巡査の初任給だという。よく飲んだものだ。この人は発作のようにこういった行動に走る。支払わねば刑務所だ。あちこちにSOSして息子の健太が支払った。上のようにすごい句を作るのに、酒は山頭火を愚弄する。

普通ならもう社会的には失墜する醜態なのだが、山頭火の自由律句がそのグループの高い評価を得ていたので、大酒飲みのしょうがない翁と受け入れられていたのだ。

このような醜態は幾度かしている。生活のため一杯飲むため金はあちこちから借りている。多分ほとんどは返さなかったのだろう(岩川、p.332以下)。


その点で尾崎放哉は気の毒だ。山頭火と同じ層雲に属し、自由律句の両雄として並び立っていた。東大出身のエリートだったが、同じように酒に問題があり、気の毒に酒乱だったらしい。人間関係もうまくいかず、転々と流転して。小豆島の南郷庵で貧困の中で病死した。山頭火もやはり貧困の中で心臓まひで急死する。このあたりも二人は似ている。


尾崎放哉の句

咳をしても一人

こんな良い月を一人で見て寝る

一人の道が暮れてきた

海風に筒抜けられて居るいつも一人

ひとをそしる心をすて豆の皮むく

障子あけて置く海も暮れきる

障子しめきって淋しさをみたす


これなどすごみがある。寂しさを究めようというのだ。普通なら寂しければ窓でも開けて星明りを見る、テレビつける、などして紛らそうとする。

ここに掲載された句は、独居の淋しさを詠っているのか、独居の優雅さを追求しているのかどうなのだろうか。

放哉はもともと無口で社会生活が苦手だと言われるから独居の楽しさを俳句にしたのだろう。


酒の事

酒乱は気の毒だ。飲むと気がくるってしまうのだ。アル症も気の毒だ。これはアルコールが止まらなくなるのだ。山頭火はアル症だったのだろう。

私も酒は飲む。毎日飲む。だけど沢山は飲めない。最近は飲んでもあまりおいしくない。

連続飲酒は無理だ。おいしくないし、体が続かない。だからそんな人はすごいと思う。体質が違うのかもしれない。

なんとなくわかるのは、私はチェーンスモーカーだった。寝ている以外は常に吸っている。おいしくないのに吸ってしまう。おいしさを求めて吸っているのかもしれない。頭の構造がそうなってしまっているのだろう。多分体よりも頭とか心がたばこを求めていたのかもしれない。今でも、多分一本吸えばたちまちヘビースモーカーになってしまうのだろうと思っている。恐ろしいことだ。


尾崎放哉の酒

突如として飲む。精神の不安を押さえようと飲む。酔いつぶれるまで飲む。飲むと攻撃的な粗暴な行動に出る(p.93)

飲まない時は優しい人間だ。しゃべりは下手だ。普通より弱い性格だ。

酒を飲むとジキルとハイドの二つの人格が転換する。素面の放哉と飲んだ放哉では同一人物と思われないほどだ。酒から醒めると酒で犯した失敗を激しく懺悔する。彼の人生はその繰り返しだ。これがその後のザンゲの生活だ(p.149、放哉評伝、村上護、放哉文庫、春陽堂)。


学生の頃からたくさん飲んだようだ。エリート社員として生命保険会社に入ったが、酒のそのような失敗で退社だ。大陸に渡っても同じく酒で失敗。病気を得て日本に戻る。一燈園に入るも酒の失敗。天功批判で去る。いくつか寺男になっても酒で失敗。最後は小豆島の庵で病死する。こういった庵も東大の出身の繋がりで紹介され入庵できたのだ。

こうしてみると、山頭火とさほど違いはない。ただ山頭火には酒乱や酒の凶暴さは聞かない。ただ目一杯飲んで知人に払わせたり、無銭飲食でぶち込まれたりした。彼の賢いのは行乞で稼げたことだ。放哉はせいぜい寺男になることだった。寺男になっても飲んでその住職を罵倒して追い出されたりした。放哉は結核で41歳で亡くなる。ほとんど自死に近いのではないか。何か生きる意欲はもうなかったのではないだろうか。自分の酒の問題に人生がいやになったのではないだろうか。山頭火は最後まで酒を愛し、周りからも愛された人生だったらしい。

放哉などは断酒しかまともに生きるには方法がないのだが、断酒はとても難しい。ちょっと一杯飲めばもう止まらなくなるのが放哉の酒だった。断酒会はある。断酒している人はいる。山谷にも山谷マックという断酒会はある。頑張っている人たちもいるのだ。

放哉のような酒癖の人は山谷にもいた。そ人は頭が切れる、そしてきちっと仲間の面倒をみるのだが、酒が入るとくるってしまうのだ。やたら粗暴になる。殴る。放哉のようだ。断酒もしたようだが、うまくいかず、自殺したと聞く。もう一人は普段は本当に借りてきた猫のようにおとなしい、酒が入ると粗暴になりめちゃくしゃになってしまう。今どうなったか。

こういう人は酒が脳神経に合わないのだ。飲めば神経がくるってしまうのだ。私も一度そのようなことがあった。仲間と飲んで気に食わないことがあってテーブルをひっくり返したことがあった。あとはあまり荒れたことはなかった。


山谷ではそういった癖があっても生きていけた。日雇いだから一日酒を我慢して仕事に行けば、金が入るし、それで飲んで暴れてもマンモス交番が来て豚箱に入り、次の日釈放とかだ。ただ暴れられた方は迷惑だ。まりや食堂もそんなことがあった。酔って粗暴な行為があったらみんなでやめてくださいとか、皆で対応するとよいとか教えられ実践した。実際酒で暴れる人は一番厄介だった。私はまりや食堂を守るために空手道場で鍛え、そういった人と渡り合ったりした。あれから40年もたって山谷もおとなしくなったが、たまにおかしなのがいる。まだまだドヤ街だから、いろんな人が流れてくるのだ。私はもういい加減な年になっているが、いざというときのために体は鍛えている。

山頭火と山谷と酒 (2023年4月28日)


(p.247、岩川または石)

ほろほろ酔うて木の葉ふる

行乞しながら一杯ひっかけて旅をする、網代笠に木の葉がはらはらと落ちてくる晩秋なのだ。

酔へばあさましく酔わねばさびしく

山頭火は泥酔するまで飲まねば気が済まなかった

酒飲めば涙ながるるおろかな秋ぞ

57歳の山頭火は体が弱り、酒が弱くなった。胸がゼイゼイなる。3合ぐらいで酔って寝てしまう。58歳で亡くなる。長い行乞放浪生活は木賃宿粗末な食事、野宿毎日の酒で体が弱ってしまったのだ。

彼の酒はとことん飲む酒だ。アル中だ。山頭火を読むと山谷の昔の仲間を思い出す。今から40年前の日雇い者の町山谷は活気があった。彼らもとことん酒を飲んだ(その中に私も入る)。だから彼は他人事ではないが、仲間でも彼ほど飲める人はさほどいなかったと思う。私の知っている人に一人いた。朝からずっと飲み続ける。ずっと、限界で、どこでもひっくり返り寝てしまう。三日は酒を断つ。幻覚の人もいた「そこに虫が走る」と叫ぶ。

山頭火は泥酔した次の日はもうしゃきっとしているのか。多分そうではあるまい。仲間も私も酒好きという点で彼と同じなので私はなんとなく彼に興味を持つ。

もう一つは俳句だ。私は定型だが彼のは自由律句だ。それは季語や定形に縛られずに気持ちを読める。学びたいと思う。

もう一つは彼は旅人だ。私も人生の旅人と思っている。

もう一つは彼は乞食坊主だ。托鉢で路銀を稼ぎ泊まり歩き句作飲み続ける。私も支援で食べているから似たようなものだ。

もう一つは彼は禅宗の坊さんだ。私はキリスト教の牧師だ。両方ともかなり自由な考え生き方だという点で似ている。

自由律句一句。ついに買う命守りしヘルメット

彼は行乞を嫌ったが、この方法しか生きる道はなかった(石、p.269)。

「一握りのこめをいただいてまいにちの旅」

家を托鉢(たくはつ)して経を上げお布施やお米をもらうのだ。それを行乞(ぎょうこつ)という。そのお金とお米で木賃宿に泊まり酒を飲むのだ。米5合が20銭だという(p.269)。托鉢できるのは曹洞宗の坊さんになったからだ。これは生きるためには必要だったのだろう。

酒は底なしだ。ほろほろ、とろとろ、どろどろ、ぼろぼろ、ごろごろ酔う。

「酔いさめの風のかなしく吹きぬける」、とことん飲んで奈落の底まで沈む(p.247)。

酒の失敗もたくさんある。悲しい酒だが、酒が俳句のガソリンでもある(p.247)。

私も酒は好きで毎晩飲むから彼のことを批判する立場にはない。酒の失敗もある。飲み屋のドアガラスを蹴破りマンモスに突き出され、上さんが引き取りに来たこともある。

山谷の私の仲間は酒好きだった。皆とことん飲む。仕事がなければ飲む、仕事があれば終わってから飲む。雨でアブレれば朝から飲む。当時立ち飲み屋はいくつもあった。飲むのに不自由はしなかったし、朝から飲んでも変な顔をする人いはなかった、朝から酔っぱらっても周りは笑っている。ほんとに当時の山谷はおおらかだった。仕事はきつかった。それだけ酒はうまかった。雨で仕事がなければ開放感から朝から酒になるのだ。

この人はアルコール依存症なのだろう。酒なしには生きていけないのだ。でもよく発病しないで生き切ったなと感心する。これだけ飲めば幻聴、幻覚、せんもう、肝臓障害など起こし病院の世話になるのだ。

私なども毎晩飲むから、肝臓障害などはありうる。今は元気だ。飲みたいから病気はしたくない。入院はいやだ。酒が飲めないからだ。まあ、入院なれば気合を入れて禁酒をするしかない。

知り合いはアルコールの深みにはまってしまっている。もうあまり歩けないのだが、それでも飲んで飲み続けている。ご飯はほとんど食べていない。おかずもほとんど食べない。トイレは間に合わない時が多く,粗相をしていて部屋がどうにもならなくなっていると奥さんがこぼしている。どうするのか。本人は子供に返っていてわめき散らすと言う。説得して酒を断酒する病院に入るしかないのだ。かわいそうに。酒はうまいが、物悲しい存在でもある。気を付けないと取りつかれ魂が抜かれてしまう。

(岩、p.233)山頭火は酒でドロドロになるから定住より旅が良いのだ。

(岩、p.233-4)

旅と俳句と酒と湯が好きなのだ。普通の人は金と暇はそうないが、山頭火はそうではないのだ。仕事をしてないから暇はたっぷりだ。金は各地に友人がいる。行乞という技術も持っている。暖かいから行倒れもない。

「春風の鉢の子一つ」

托鉢の鉢だ。お布施、お米などを入れてもらう器だ。自由律句の名手だから各地にファンがいるのだ。多分憎めないタイプの人なのだろう。そこを頼りに旅に出るのだ。そこに逗留して酒三昧だ。行乞すれば食ってはいけるのだ。岩川が皮肉ではなく、事実を語っているのだろう。これが彼の生きざまだ。私は定型句だが、彼の自由律句はうまいと思う。私は自分の句作の参考にしたい。

今の私は行乞と似ている。年二回機関誌を出して献金をお願いしてそれで生活が成り立っているからだ。

(岩、p.79)

山頭火は酒乱だと言う。飲めば泥酔するまで飲む。冷めた後の虚無感が強い。うつ病でもあった。

(p.140)酒のうまさを知ることは幸福でもあり不幸でもあるのだ。

山谷の仲間には酒をかたきのように飲むものもいた。飲んで飲んで飲みまくる。飲みすぎれば次の日は仕事に出ない。仕事はバリバリやる。こういう人は酒のない国に生まれたなら立身出世できたのだろうと思う。イスラム教の国では酒はご法度だからそういった国に生まれたならよかったのだ。そういった人は山谷にはいくらもいたと思う。

私も一緒に飲んだし、まりやを開設し、日雇いをやめた今も晩酌は欠かせない。せいぜい2-3合だが、一合が良いそうだ。できるだけ抑えようとするがなかなかそうはいかない。泥酔するほどは飲めないが、もっと減らすべきとは思っているから気持ちは彼と同じだ。飲まないと思ってもずるずる飲むのが彼だ。私も毎晩だ。だから旅で行乞した方が飲めないのだ、そんなに喜捨はないからだ。私には夜の晩酌しか楽しみはないのだ。ボードでも、テニスでも帰宅後の酒がうまいのだ。次の日がボードやテニスの時は控えめにしないと体がうまく動かない。

それでも結構飲んでしまう。やっぱり彼に近い。

(p.435)時々アル中の発作、身辺幻影しきりと書いてある。やはり飲まないと禁断症状が出るのだろう。(p.456)戦争たけなわになり、行乞のもらいが少ない。もく拾いもする。山谷の野宿の人もしている。飲みたくて、足が飲み屋料亭に向く。無銭飲食、つけ馬と一緒に俳友の家行き払ってもらう。無銭飲食を幾たびか起こしている。醒(さ)めれば自責の念。山谷でも気が付くと酒の自動販売機の前に立っていたという仲間がいた。ある人は酒乱で何度か断酒しても無理で自分をはかなんで自殺した人もいる。酒はなかなかつらい存在だ。

山頭火は鉄面皮なのかもしれない。自堕落なくずかもしれない。ずうずうしく無銭飲食で実際何度かぶた箱に入れられている。自由律句は巧みでそのグループの人々からは尊敬はされていた。愛すべき人なのだろうか。この矛盾の中で生き、そういった自分の支持者に依存して生きていたのだろう。金あればぐてぐてに酔って道端で寝転がっていたという(p.461)。

私が長く面倒をみた山谷のおじさんNを思う。酔って道端で寝転がり通行人が心配して救急車だ。私が病院に呼ばれて腹がたった。忙しいのに何やってるのかと思った。病院に行けば、酔っている。補聴器がないので意思が通じないのだ。ポケットにまりや食堂の電話の書いた紙きれがあったのだ。山谷に連れて帰る。山谷ではそういった人も生活している。山頭火が他人じゃないのだ。最初に出会った頃のNは野宿で薄汚れて、シラミの服だった。山頭火も何年も放浪していて法衣は薄汚れシラミもついていた(p.464)。

山頭火は自由律句の達人で生き延びたのだろう。あれだけ飲んで60近くまで生きたタフガイだ。

仲間も飲む。飲む人生だ。日雇いして夜は飲む。それで人生はお終いだ。それも一生だ。一人一人の一生はそれぞれでよいのだ。あれこれ分け隔てはない。無駄な人生はないのだ。

生きて、生きて最後は死ぬ。戦争は嫌だ。人が無駄に死ぬからだ。正義の戦争なんてないのだ。

山谷の仲間の一生は何か。自分が楽しかったらそれでよいのだ。日雇いは下済みで産業に貢献して報われずに一生を終える。損な役割だが、これが資本主義の仕組だ。日本のマシな点は生活保護や医療保護もあることだ。

山頭火の俳句は素朴でよい。真似をしてみた。

ついに買う命を守るヘルメット

とりあえず旅に出ようかホトトギス

酔い覚めるように鬱きえし

土曜日の高速飛ばすモヤはれし

一人旅自分と話す

スズメもめるなわが庭で

土手染し菜の花群れるジョキング

河原に色テントいくつもイベント

 山頭火 (2023年4月19日)


山頭火を知っている人は大勢いる。何度か山頭火ブームがあったと聞く。今でも山頭火が様々な形で生きている。彼の生まれた防府には山頭火ふるさと館がある。

自由律俳句の代表的俳人。5,7,5や季語にとらわれない俳句だ。大正15年放浪の旅に出る。俳句仲間に支えられ放浪と一時定住を繰り返した。旅と句と酒と温泉に生きた。山頭火の俳句は多くの人に好かれている。

山頭火の履歴を少し追ってみよう。

明治15年、防府市に生まれる。

種田家は大種田と言われた大富豪だった。宅地の総面積は850坪だった。父竹次郎は政治にのめりこみ、女にのめりこみ家を顧みなかった。

25年、母フサは絶望して自殺

少年の正一の心に深い傷を負う。

34年、早稲田大学文学部に入学

彼は優秀だったのだ。俳句、短歌もした文学青年だった。

37年、神経衰弱のために退学

40年代、父は代代の屋敷を売却、酒造場を開業

42年、結婚

43年、長男健誕生

家庭を顧みなかった。多分家庭には関心がなかったのだ。

大正2年、俳句雑誌、層雲に自由律俳句を投稿

層雲の句友と親交を深める。層雲では注目された。無軌道な酒になる。

5年、酒造所破産一家離散。山頭火一家は熊本市に行く。

古書店雅楽多を開業

家業は手につかず、上京したり、文学にのめりこむ。

大正7年、弟次郎自殺

9年、離婚

酒浸りの生活だったようだ。

彼はなぜ酒浸りの生活だったのだろうか。

憂鬱症だったと岩川は言う。その解消で酒を飲む。飲むと泥酔するまで飲み、翌日は自責の念にかられるという。その繰り返しだった。

13年、泥酔して市電を止める。知り合いが報恩寺に連れてゆく。

14年、曹洞宗報恩時望月義庵の下出家得度、僧侶となる。

味取の観音堂の堂守となる。

「松はみな枝垂れて南無観世音」

15年、44歳行乞流転の旅、九州、山陽、山陰と流転する。

これ以来行乞流転の生活になる。多分、この生き方が性分に合っていたのだろう。托鉢してお米とお金を恵んでもらい、好きな酒を飲み、俳句を作り、好きなように旅を続けるのだ。気ままで精神的には良かったのだろう。ずっと日誌はつけていた。自由律俳句も作っていた。

「この旅、果てもない旅つくつくぼうし」

旅を続け、お金が足らず宿に留め置かれたりすると、俳句仲間に支援を頼むなどして生きていたのだ。支えの友人が幾人もいたのでそういった生活が可能だったのだろう。

昭和4年、北九州地方、雅楽多に戻る。再び旅

昭和5年、熊本で借間「389居」で自炊

昭和7年、某中庵に住む、鉢の子出版

11年大阪、平泉まで

13年、56歳風来居に転居

14年、長野、四国、一草庵に落ち着く

幾度か庵で生活するが、これらも俳句仲間の支援ですることができた。

15年、58歳一代句集『早木塔』発刊

この自由律俳句集は素晴らしい。このような俳句の力が友人たちをひきつけ、山頭火が生き延びる力になったのだろう。

10月11日未明死亡。念願どおりぽっくり亡くなる。死因は心臓麻痺だ。